ブログ京都四条烏丸店

本能寺について

本能寺と言えば、戦国武将の織田信長が自害した寺院として有名ですよね。そんな本能寺には、度重なる再建と移転を経験した歴史があることをご存知でしょうか?

本日は、本能寺についてお話させていただきたいと思います。

繰り返された本能寺の再建と移転

本能寺
京都市中京区に位置し、法華宗本門流大本山でもある本能寺は、織田信長が明智光秀によって討たれた「本能寺の変」で有名ですが、実は現存している本能寺で起こった出来事ではありません。

再建や移転が行われた本能寺は、日隆上人によって1415年に現在の佛光寺辺り(京都油小路高辻と五条坊門の間)に建立されました。創建された当初は「本応寺」と呼ばれていましたが、1433年に六角大宮に移転した際に「本能寺」と改められたのだそうです。
しかし、1536年の天分の乱によって本能寺は全焼してしまい、1545年に油小路蛸薬師へと移転したのです。7回の再建によって最大の規模となった本能寺で、あの有名な本能寺の変が起こりました。
1582年に本能寺の変が起こった際に、再び本能寺は焼失してしまうことに。そして、豊臣秀吉による都市計画によって現在の位置に移転したのが、1589年のことでした。
江戸時代後期に起こった天明・元治の大火災によって、伽藍は再び焼失してしまうのですが、昭和3年の1928年に本堂が再建されて、現在の姿に至るのです。

約50もの説を持つ本能寺の変の真相

本能寺
本能寺の変とは先ほども触れたように、1582年6月2日に、織田信長が宿泊していた本能寺を明智光秀が襲う事件のことです。その当時、織田信長は天下統一まであと一歩というところにまで上り詰めていた段階でしたが、そんな時に本能寺の変が起こったのです。この、「変」とは現代で言うクーデターのことで、信長と信忠親子を突発的に殺した出来事だとされていますが、明智光秀がこの親子を襲った理由は今でもはっきりとされていない謎の多い出来事だったのです。

本能寺は、織田信長が京都に滞在するために建立されたものですので、簡単に敵が攻めてこられるような無防備なお寺ではありませんでした。周りの堀や石垣なども新設し、防衛面に優れた建築物であったはずでしたが、本能寺の変が起こった夜は、約100の兵しかいなかったのだそうです。それに対して、明智光秀は13000の兵でクーデターを起こし、織田信長を討ち取ったのでした。

今もなお謎が残る本能寺の変の舞台となった本能寺ですが、残念ながら現存している本能寺はその当時の建物ではありません。
それでも、多くの参拝者が多く訪れる本能寺は、京都の有名な観光スポットでもあります。
京都にお越しの際は、ぜひ足を運ばれてはいかがでしょうか。

当店では、すき焼き、しゃぶしゃぶをはじめ、様々な旬の食材を使った料理をご用意しております。

ぜひ一度当店自慢の料理をお召しあがりになってみてはいかがでしょうか。皆様のご来店心よりお待ちしております。

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