ブログ京都四条烏丸店

2019.2.12

酬恩庵と一休さん

寒気きびしき折柄、皆様いかがお過ごしでしょうか。本日は、酬恩庵一休寺についてお話させていただきたいと思います。酬恩庵は京都にある済宗庵大徳寺派の寺院として有名です。一休寺や薪の一休寺などの別名を持っています。一休寺納豆が有名ですよね。様々な行事を年中行っており、是非訪れていただきたい寺院の一つです。

それではご紹介していきたいと思います。

 

酬恩庵の歴史

酬恩時

酬恩庵の元の名前は妙勝時と言います。鎌倉時代に臨済宗の大應国師が中国で学んだ禅の道場を建てたことから始まります。その後、元弘の戦の際で燃えてしまい、そのままになっていました。それを一休禅師が1455年ごろに再興し、名前も酬恩庵に改名したとされています。

それから、八十八歳まで過ごしていたことから一休寺の通称で知られるようになったそうです。

一休禅師の幼名は千代丸と言いました。その後、京都の安国寺に入門した際には周建の名前を授かりました。幼いころからその才能は際立っており、漢詩の才能が特に優秀だったそうで、13歳と15歳の時にそれぞれ長門春草と春衣宿花をかいています。一休と言う名前は華そう宗曇という高僧により付けられました。その後88歳で病に倒れ、なくなってしまっています。

酬恩庵は国の重要文化財に指定されています。本堂、方丈、庫裏、東司、など新築されたものや修復されたものが数多くあり見ごたえたっぷりです。

虎丘庵は京都の指定有形文化財に指定されています。中国の虎丘紹隆と言う禅宗の名前から由来しているようです。

また、酬恩庵の庭園は方丈庭園と虎丘庭園から出来ています。方丈庭園が造られたのは

松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山が協力したからだと言われています。北庭、東庭、南庭があり、北庭は枯滝落水を表した蓬菜庭園と呼ばれています。東庭は十六羅漢をモチーフにしたもので、南庭は白砂の大海をあらわしたとされています。

 

一休禅師について

一休

一休禅師と聞いて思い浮かぶことは、あの一休さんではないでしょうか。そうです、あの頓知話で有名な一休さんの事です。

一休さんには様々な逸話があります。木製の刀を本物のようにして見立て、脇に差し風変わりな格好で街中を歩いていたそうです。これは、鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかないという事を見せたかったそうです。当時の世相は内面よりも外面を着飾ることが重要視されていました。そんな世の中を痛烈に批判しているのだろうと考えられます。

また、本願寺門主蓮如の留守中に家に忍び込みとても大事にしている阿弥陀如来像を枕にして昼寝をしており、蓮如が帰ってくるなり二人が顔を合わせ大笑いをしたという話も残っています。その人柄がうかがえる逸話ですよね。

このような一見人並みではない行動や言動は当時の仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らし、痛烈に批判していたとも取れます。このような、過去の形式や戒律に捕らわれない生き方は民衆の人々の大きな共感を呼んだそうです。

そして、かの有名な頓知話を生み出すもとになります。様々な革新的な行動を取っていた一休禅師は時代のヒーローだったのかもしれませんね。

 

今回は酬恩庵と一休禅師についてお話させていただきましたがいかがでしたでしょうか。一休さんの生きざまや信念を感じ取っていただけたでしょうか。私も様々なしがらみに捕らえられることなく自分の生き方を貫いていきたいと感じました。

 

当店では、すき焼き、しゃぶしゃぶをはじめ、様々な旬の食材を使った料理をご用意しております。ぜひ一度当店自慢の料理をお召しあがりになってみてはいかがでしょうか。皆様のご来店心よりお待ちしております。

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